飛行は彼の人生の重大事でしたが、飛行機の性能は熾烈な戦争と科学の進歩により彼の能力を遥かに超えてしまいました。彼自身は状況をよく自覚し覚悟していました。遺稿の中にこのような文章があります。
『いまP-38に乗って飛行訓練を受けてきたところです。すばらしい飛行機です。二十歳のころこの贈り物が自由に使えたらどんなにうれしかったでしょう。でも世界の空を六千五百時間あまり飛び回ってきて、四十三歳を迎えた今日では、悲しいことですが、この遊びにもうあまり喜びが見出せなくなったことを認めないわけにはいきません。これは移動の道具---ここでは戦争の道具---にすぎません。私がこの仕事では長老とも言える年齢で今なお速度と高度に身をゆだねているのは、昔の充足感をもう一度見出すことをねがっているというよりは、私の世代のわずらわしさを何一つ拒否しまいと望んでいるからです。』(サン・テグジュペリの遺稿「X…将軍」への手紙から。)
私たちが知らない「私の世代のわずらわしさ」を拒否せず彼は帰ってきませんでした。しかしその直前、彼の文才は、砂漠の満天の星空から真実を求める幼き王子を呼び、そしていかなる飛行機でも到達できない星空へ自分の魂を送り届けていました。
彼の飛行士としての人生は幸運ばかりではありませんでした。彼は飛行士としての才能に疑問を呈する人もいます。
彼が三歳の時ライト兄弟が人類初飛行を成し遂げました。彼自身は12歳のとき遊覧飛行で初めて飛行しました。成人後二十一歳で軍隊に入営し操縦訓練を受け、除隊後26歳で郵便飛行機のパイロットになり同時期に文筆活動も始めました。35歳のクリスマスの日にパリ~サイゴン最速飛行を発念し、二日後に出発したけれど同日夜リビア砂漠に不時着してしまいました。このとき一個のオレンジと半リットルのコーヒーだけで副操縦士と三日間かけて砂漠200キロを歩き、奇跡的にベドウィンのキャラバンに救われ85キロ先の岩塩鉱山に生還しました。
その後も冒険飛行と文筆業を続けましたが三十八歳のときの失速事故で瀕死の重症を負いました。第二次世界大戦が勃発し39歳で予備大尉として召集されました。偵察大隊に所属し40歳で7回出撃しました。ナチスのフランス占領に伴い、ボルドーからアルジェへ機材と人員を脱出させ同地で召集解除されました。アメリカに渡航後、連合軍北アフリカ上陸を契機として、あらゆるコネを動員して43歳で軍に復帰しました。しかし2回目の出撃で着陸に失敗し操縦許可を失いました、が、さらにコネを総動員して操縦許可の復活に成功しました。しかし44歳の7月17日に操縦許可回復後9回目の出撃で未帰還となりました。
彼の最後は永い間謎でした。1998年マルセイユ沖の海底から、名前と連絡先が書かれたブレスレッドが発見され2003年機体の残骸が引き上げられました。左エンジンカウルに刻印されたロッキード社の製造番号で彼の期待であることが確認されました。機体の損傷は激しく広い範囲に散らばっていましたが被弾・火災の痕跡はありませんでした。一時、哨戒中のドイツ戦闘機FW190Dによる撃墜説がありましたが双方の記録突合せと残骸が撃墜説を否定しました。
彼が体験した最後の「私の世代のわずらわしさ」は今も不明です。しかし私も含めすべての人が「私の世代のわずらわしさ」を持っています。しかし全ての人が「何一つ拒否しまいと望んでいる」訳でもなさそうです。そう思った彼でさえ、あるクリスマスの夜にサイゴンへの飛行で解消しようとしたほどです。
ある時は逃げ、ある時は他人に押し付け、またあるときは誰かが唱えた言葉(戦争とか思想弾圧とか自由とか平和とか世紀末とか景気とか英霊とか妄言とか平等とかオンリーワンとか歴史とか憲法とか反対とか賛成とか膝の裏がたまらんとか)に置き換えて思考停止して看過することなどよくあることです。全部引き受けたら切がありません。それでも最後の最後に出会う「私の世代のわずらわしさ」は拒否せず自覚し対処しなければなりません。わたしもそうありたいと思います。でもそれまではテキトーにやります。
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